内陸の村の暮らし

女性福祉省と法律サービスのスタッフと村に行ってきました。今回は四日間、ナイタシリ県の内陸の村を回ってきました。川の支流がたくさんあり、フィジー最大のダムがあります。今回訪れた中でも一番遠くのナサバ村の生活を紹介します。 首都のスバから車で約一時間、ナイタシリ県の町ブニダワに着きます。町役場、郵便局、病院、よろづや約二件の小さな町です。そこからさらに4WDで約一時間山道を行くと、車が入れる最後の村、サワニクラ村に着きます。公共のバスもこの近くまで来ます。 ハイキングはここからです。荷物はレンタルした馬二頭にお願いして、一行は河原を山に向かってスタート。この川の上流に村があるのですが、道はありません。川を何度も横切って、こっち側あっち側、ゆるいがけを上って下りて、進みます。川の流れは速く、しっかり踏ん張って進まないと足をとられそうです。水は透明で、底の石がきれいに見えます。 途中に小学校があります。子供たちは毎週末この川を渡って家に帰り、また学校に戻ってきます。河原には牛、馬、豚が放されていて、カサバ芋を植えた畑もあります。   川を20回以上渡り、2時間半歩いたところで、目指す村が現れました。村の前は川、後ろは山です。川のさらに上流にはもう一つ村があります。 家はトタンぶきで構造はとてもシンプルです。土間とひと部屋、床にはわらを敷きその上にござをかぶせてあります。この床に座り、ご飯を食べ、寝ます。いすもテーブルもありません。ドアに鍵のかからない家もあり、犬や鶏が入ってきたりもします。キャンプみたいな気分です。 昼食には、川からとってきたばかりの芹とふかしたカサバ芋をいただきました。しばらくすると大雨、トタン屋根に落ちる激しい雨音で他には何も聞こえません。それでも、福祉サービスを申請するために、隣の村から何人か、雨の様子を見ながら、川を渡って歩いてきました。雨の中大変だったんじゃない?と尋ねると、「うーん、川をわたって15分ぐらいよ」とのこと。川は増水して歩くのは大変だったはずです。 集会所は発電機で電気をつけるので、何とか暗くはありません。各家はソーラーの電球一つです。夜になれば寝るということです。水はダムがあるので水道がつかえますが、村ごとに村長さんが管理するので、水道は夜8時にストップ、朝8時までありません。朝早くに子供たちが川で歯磨き、水浴びをしています。料理をするのは焚き木の火です。焚き木の火で沸かしたお湯で入れたお茶は格別で、ガスや電気ポットで沸かしたお茶とは断然違います。 村の朝は白い霧のかかる中、外でまきを割る音、子供たちがバレーボールで遊ぶ声がします。 電話回線はなく、携帯電話のシグナルは村のところどころで拾えるようです。もちろんテレビもインターネットもなく、ラジオも各家にはありません。新聞は町を往復するバスが持ってきますが、そのバスまでは川を渡って徒歩二時間以上です。病院と警察は村から徒歩二時間半ののちバス一時間超のブニダワ町にありますが銀行はなく、首都のスバまで出ないと利用できません。 妊娠九ヶ月の若い女性は、動ける今のうちに村を出て、(徒歩、馬、どちらにしても移動は楽ではありません)町で出産するようすすめられていますが、村にとどまり、先輩ママさんの助産で自宅出産を希望のようです。 昨年通学途中に大怪我をした息子さんを毎月スバの病院まで連れて行くお母さんは生活保護の申請を考えています。生活保護は月額F$50(約2600円)、さらにF$50の食料引換券もついてきますが、引き換えるにはブニダワ町まで行かなければなりません。 私たちの帰り道(川)はゆうべの大雨で増水し、流れも速いですが、水は澄んで、空は晴れています。それでも天気が心配なので、やや急いで、また二時間半かけて、川を数え切れないほど横切り、ふもとのサワニクラ村まで戻りました。 無事戻ってきたのもつかの間、村の集会所でサービスの紹介を始めたころ、激しい雷雨になりました。集会所を一歩出ると村全体が浅い川のよう。ざぶざぶ横切り、本来の川のところまで来ると、橋は濁流に飲まれてしまっていました。なんと雷雨の中、村の人総出で、私たち一人一人と荷物を一つ一つ抱えて渡るしかありません。深さが腰上まである濁流をなんとか渡り切り、みなずぶぬれで車にたどり着きました。 ここからブニダワ町に戻る山道は車で約一時間、濁流で見えなくなった橋を渡り、倒れ掛かっった電柱をかわし、ところどころで入るラジオを聴きながら到着。この雷雨では、上流にある小学校やナサバ村はどうなっているのでしょう。水が引くまでは川沿いは歩けないことでしょう。 今回四日間で、16の村からの250人にお会いし、生活保護、福祉年金などの申請書が30件提出されました。    

Kai or カイ

フィジーでは川で取れるアサリのような貝を食べます。そのままゆでたり、カレーにしたり、ココナツミルクで煮たり。市場では大きさによって一山4から10フィジードルで売られています。フィジー語で「カイ」といいます、日本語の「貝」と関係あるのかどうかはわかりません。 People in Fiji eat freshwater mussels. They like boiled ones, cooked in curry or coconut milk. It is sold at local markets, at F$4-7 a heap, depending on the size. It is called kai in Fijian. カイは村の女性が川に潜って集めます、ということは聞いていましたが、実際どうやってとるのか、ナドカイカ村の女性を訪ねました。海から約30キロ上流のレワ川沿いにあるナドカイカ村では、女性たちがボートやいかだで川に出ます。小さいころからおばあさん、お母さんに習って始めるので、みなベテランです。結婚を機に夫の村で始める女性もいます。ほぼ女性のみがカイ漁に従事するそうです。 I learned women glean kai in the river, but was not sure exactly how. I visited Nacokaika…

フィジーで出会った女性 その一

ミティ (バングラデシュ — オーストラリア — フィジー — ニュージーランド) フィジーは南太平洋の国々の交通、運輸、経済、教育の中心で、南太平洋地域への玄関でもあります。私が滞在する南太平洋大学の住宅には大学や研究機関のスタッフなど、さまざまな人がやってきます。 ミティ・パラブ夫妻が私の住んでいる大学の住宅MQ7に到着したのは夕飯も終わったころの夜でした。バングラデシュからオーストラリア経由でフィジーのナンディ空港に到着し、そこから島の反対側にあるフィジーの首都スバまで約4時間タクシーに揺られて来ました。 ナンディはフィジー観光の基点、ほとんどの国際線がここに発着します。首都のスバへはナンディから飛行機か、バス、タクシーを利用します。 翌朝、キッチンで顔を合わせると、ミティがここまでの長旅について話し出しました。飛行機に預けた荷物が届いていなかった、ナンディからの道中、車窓から見るフィジーは明かりもなくただ真っ暗で、とんでもないところにきてしまった、到着後、夕飯を探して外に出てみると、マクドナルドがあったので少しほっとした、夫のパラブはオーストラリアで博士課程を終え、フィジーの大学の仕事を得て二人でやってきた、二人ともバングラデシュのダッカから来た、などなど、おしゃべりが始まりました。 ミティはインドのバンガロールで大学に通っているときに結婚のためダッカに呼び戻され、結婚式の前日、夫となるパラブに初めて会いました。結婚式後、大学に戻りたかったものの、夫がオーストラリアの大学院で学ぶため、ともに出発しました。オーストラリアの大学院を修了し、雇用の機会を得て、移住する計画です。 オーストラリアではスーパーマーケットのマネジャーの仕事をしていたミティは、その生活に比べると、フィジーのキャンパス生活は退屈、といいながら、夫が仕事の間は水泳教室にいったり、仕事の後は二人でウォーキングに出かけたり、活動的です。ミティは白い肌が自慢でしたが、フィジーでは、難しいようです、スカイプごしのダッカのお母さんに「日焼けして誰かわからなくなった」といわれ、がっかりしていました。 料理は嫌い、毎日なんてやってられない、といいながら、いつもキッチンに立って、おいしいものを作っていました。バングラデシュで食べていた川魚と似た魚をスバの市場で発見し、毎土曜、夫のパラブが市場に出かけ、魚と野菜と果物を山ほど持ち帰り、下ごしらえし、ミティがそれをカレーにします。市場での買い物と洗濯は夫の担当です。 スバのバングラデシュ人コミュニティーは子供も入れて60人ぐらい、その一員として、毎月持ち回りで行われるパーティーにも参加します。家ではTシャツ短パンの彼女もそのときはばっちりメークにアクセサリーキラキラです。どの国にいても「コミュニティー」に参加することになり、そこのメンバーからバングラデシュにいる知人親戚までうわさがすぐに届いてしまうので、気をつけないといけないそうです。ミティ曰く、「家の中でさえ短パンなんかはいているのを見られたらとんでもない」。コミュニティーを招待する担当が回ってきたとき、偶然うちでは断水で数日間水が出なく、ミティは泣きそうなっていましたが、それを見てパラブは笑っていました。 パラブがフィジーの大学で教えている間、ミティは途中だった大学を修了すべく、シドニーへ移りました。専攻はマーケティングです。期末試験後フィジーに帰ってきて数週間過ごし、またシドニーに戻ります。 その後、パラブはまだ契約途中でしたが、ニュージーランドの大学の職を得て、フィジーを去りました。ニュージーランドの南の地方都市で、バングラデシュのコミュニティーもなく、「スパイスも売っていないようなところで、どうやってやっていくんだろう」、と不安がっていましたが、フィジーに溶け込んでいった二人なら、心配ありません。フィジーに遊びに来るかと聞くと、たぶんこない、とのこと。今頃はミティも大学を終え、パラブに合流して地元になじんでいることでしょう。 二人ともヒンズー教徒、バングラデシュではマイノリティーです。ヒンズー教徒の女性は誘拐されムスリムの男性と結婚させられるというような危険もあり、バングラデシュでは何かと生きづらい、と感じました。そのせいもあってヒンズー教徒の家族同士で若者の結婚をお膳立てします。 バングラデシュのオフィスからフィジーに派遣されてきたムスリムの同僚曰く、「バングラデシュでヒンズー教徒が危険な思いをしているなんてことはない、バングラデシュから出たい人たちはそんな言い訳をするのだ」、とのこと。 バングラデシュはイスラム教徒約89%、ヒンズー教徒約10%、ブロガーらが連続して殺されたり、アムネスティインターナショナルのレポートよると、過激派ムスリムによるヒンズー教徒、少数民族、人権活動家や非宗教家らに対する暴力が起きています。誘拐結婚もキルギスタンなどでよく聞きますから、バングラデシュでもあるのかもしれません。(宗教を利用した暴力はイスラム教に限らず、ターゲットもさまざまですが。) ちなみにフィジーでは、2007年世論調査によると、クリスチャン64.4%、ヒンズー教徒27.9%、イスラム教徒6.3%となっています。大英帝国支配を起源に、南アジア出身のフィジー人の人口は40%弱。 ミティ・パラブ夫妻はバングラデシュに戻って暮らそうとは考えていません。国連のデータによると、バングラデシュ出身の家族やその2世3世ら子孫(ディアスポラ)の人口は89カ国に780万人(2013)いるそうです。多くがインド、中東で、オセアニアに移住するバングラデシュ人は少数派のようです。 http://www.bpb.de/gesellschaft/migration/laenderprofile/216104/international-migration-from-bangladesh ちなみに日本人ディアスポラ人口は推定350万人だそう、バングラデシュの半数以下。http://www.jadesas.or.jp/aboutnikkei/index.html